こんにちは。ひよどりです。
最近、ニュースや教育現場で「低学年の不登校・行き渋りの急増」が大きな話題になっています。学校環境の変化やICT化への適応など、さまざまな原因が語られていますが、私はもう一つ、私たちが直視を避けている「社会の構造的な変化」があるのではないかと感じています。
それは、「これまで家庭の中で、専業主婦層が何気なく、しかし高度に担ってきた『きめ細やかな察知とケア』の価値が社会的に軽視され、代替されないまま消えてしまったこと」の影響です。
誤解のないように最初にお伝えしたいのですが、私は女性の社会進出や共働きというライフスタイルを否定したいわけでは決してありません。
そうではなく、男女が共に外で働くモデルへ一斉にシフトする中で、かつて家庭の安全基地として機能していた「子どもの微細な変化を察知し、ストレスを解毒する時間と機能」を、社会の誰も代わりに引き受けず、置き去りにしてきたことに本質があるのではないか、と思うのです。
「察知する力」は、高度な生物学的インフラである
「男性が家庭に入ったり、保育や学童に外注したりすれば解決するのでは?」という意見もあります。しかし、形だけ役割を交代しても、なんとなく「母親のようなきめ細やかな察知やケアができない」と感じることはないでしょうか。
これは単なる役割分担の固定観念ではなく、進化心理学や認知科学の視点からも裏付けがある「事実としての特性」です。
進化心理学には「愛着促進仮説(Attachment Promotion Hypothesis)」という理論があります。人類の歴史の大半において、言語を持たない乳幼児の主たる養育を担ってきた女性は、子どものかすかな表情の変化、声のトーン、肌の血色といった「非言語的なサイン」を先回りして察知することで、子どもの命を守ってきました。
実際、認知科学の実験(Hampsonら, 2006など)でも、女性は男性に比べて、人間の「一瞬のかすかな表情変化(Subtle expressions)」や、恐怖や悲しみといった「ネガティブなSOSのサイン」を察知するスピードと正確性が有意に高いことが実証されています。
また、脳科学の研究(Strathearnら, 2009)では、母親が我が子のSOSのサインを見た瞬間、脳内のオキシトシン(絆のホルモン)分泌や、ケア行動を起こさせる脳のスイッチ(報酬系)が自動的に激しく活性化することが分かっています。
つまり、子どもが「学校で何かあったけれど、親に心配をかけまいと普通を装っている時」の、ほんのわずかな違和感(目の泳ぎ方、ため息、身のこなし)をすくい取るセンサーとケア行動は、人類が進化の過程で磨き上げてきた、極めて高度で複雑な「生物学的インフラ」なのです。
「時間の貧困」と、インフラなき撤去
現代社会は、この高度なインフラ(かつては専業主婦層が主に稼働させていたもの)を「誰でもできる家事・育児」と軽視し、経済的な生産性ばかりを追い求めてきました。
その結果、現在の共働き世帯は、仕事と家事・育児に追われ、精神的なゆとりや子どもと深く向き合う時間が枯渇する「時間の貧困(Time Poverty)」に直面しています。
親が悪いわけではありません。社会全体の余裕がなくなっているのです。 しかしその結果として、以下のような構造が生まれてしまいました。
かつて: 子どもが学校で傷ついて帰ってきても、家庭に「何もしないでぼーっと過ごせる時間」と「先回りしてストレスを間引いてくれるセンサー(親)」があり、そこでエネルギーを回復できた。
現在: 親も子も限界まで忙しく、家庭内の「時間的・精神的余白」が減少。子どもの「かすかなSOS」に誰も気づけないまま過適応が進み、ある日突然、エネルギー切れ(不登校)として問題が顕在化する。
いわば、元の心のインフラを撤去したのに、新しい代替インフラを社会が用意していない「真空地帯」に、今、低学年の子どもたちが落ち込んでしまっているのではないでしょうか。
「あえて調整する」という、先進的な知性
最近、私の周りでも、この社会のバグにいち早く気づき、あえて仕事をセーブしたり、専業主婦(主夫)という選択をして、家庭内のリソースを調整している人たちを見かけます。
それはキャリアの後退などではなく、「社会が用意してくれないなら、自分の知性と選択で、我が子のために最も難易度の高い『個別最適な安全基地』を家庭内に再構築している状態」なのだと私は思います。
1か0かの二元論ではなく、子どもが幼い時期や、子どもの心が揺らいでいる時期には、堂々と家庭内のケアに比重を置く。そして社会は、その「察知し、ケアするスキル」を、外で稼ぐ労働と同じように、あるいはそれ以上にリソースを割くべき価値あるものとして、リスペクトし、応援していく。
低学年の不登校急増という現象は、私たち大人社会に「命を育て、心を守るケア労働の価値を、もう一度正しく評価し直さないか」という、子どもたちからの切実なサインなのかもしれません。
みなさんは、どう思われますか?
