「主体性が大事」と言われて久しい今の教育。しかし、その言葉が飛び交う一方で、心ある子どもたちが、その「主体性」という空気の正体に息苦しさを感じ、学校を休むという選択をしているように私には見えています。わが子が下した「行事欠席」という重い決断から、本当の主体性とは何かを問い直します。
「これからは主体性の時代だ」と、学校現場では子どもが自ら動く教育が模索されています。しかし、その「主体性」という言葉が、時として子どもを追い詰める凶器になっているように感じることがあります。
わが子は先日、学校行事である合唱発表会の「本番を欠席する」という選択をしました。
練習の最終段階で、先生やリーダーから飛び出したのは「今の歌声は50点」「70点、それでは保護者に伝わらない」という、点数による叱咤激励でした。大人は「やる気を出させるため」と言うでしょう。しかし、わが子がノートに綴った本音は、大人たちの期待とは全く別のところにありました。
「歌のうまさや声の大きさよりも、もっと大切なことがあるはずだ。……自分たちから『歌いたい』という気持ちを持って、一人ひとりが心をこめて歌ったほうが、聴いてくれる人への一番のプレゼントになるとおもいます」
わが子は、点数で心を測り、誘導される練習に、心からの違和感を感じたのです。
誘導された「正解」は主体性ではない
先生が「そんなんで保護者に気持ちが伝わりますか?」と問いかけ、子どもに「伝わりません」と答えさせる。こうした誘導的な問いかけは、教育現場ではよく見られる光景です。
しかし、これは対話ではなく「正解の強要」です。子どもたちは先生の期待を察し、忖度して言葉を選んでいるに過ぎません。
わが子の欠席は、自分の中にある「歌いたい」という純粋な感覚を、大人の身勝手な演出から守り抜くための、最も主体的な「NO」という意思表示だったのだと私は受け止めています。
教育に必要なのは「余白」
人は他人から自由を制限されると、無意識に反発したくなる心理(心理的リアクタンス)が働きます。完成度を求めれば求めるほど、表現から心は消えていくのです。
大人が誘導する手を離し、子どもが自分の「快・不快」を身体で味わい尽くせる「余白」を残すこと。それこそが、将来自分の人生を自分で決めていく力(自己決定力)の根っこになるはずです。

