「今日の目標は、楽しむこと。それだけで十分です」
小学校で理科の特別講師として教壇に立ったとき、私は子供たちにこう伝えました。すると、教室には「えーっ!」「それだけでいいの?」という驚きのどよめきが。
今の教育現場は、大人も子供も、常に「正解」や「評価」に追われています。でも、私が見せたかったのは、もっと根源的な「学びの喜び」でした。
この記事では、顕微鏡を通して世界を覗いた子供たちの瞳が、なぜあんなにも輝いたのか。そして、私たちが大切にすべき「教育の余白」について、教育委員としての視点も交えてお伝えします。
1. 見慣れた世界の「解像度」が上がる瞬間

わあ!これ、何!?ドットの集まりみたい!

実はそれ、教科書のカラー印刷の一部なんだよ。

肉眼では「ただのうす紫色」に見えるものが、レンズを通すと鮮やかな青と赤のドットの集合体として現れる。
「見慣れた世界が、実は知らない姿をしていた」 この驚きこそが、子供たちの好奇心を爆発させるスイッチになります。
授業では、モンシロチョウの卵や自分の髪の毛、消しゴムのカスなど、好きなものを自由に観察してもらいました。
「面白いのが見えたら教えて!」と伝えると、子供たちは夢中でレンズを覗き込み、豊かな表情を見せてくれました。
2. 「あえて時間をかける余白」を用意する
今回の授業のために、私は数週間前からプランターでキャベツを育て、学校へ持っていきました。モンシロチョウがやってきて、卵を産んでくれるのをじっと待つためです。


効率を重視する今の世の中で、この「待つ」という行為は無駄に見えるかもしれません。しかし、大人があえて「余白」を用意することで、子供たちは小さな生命に対して自ら目を向けるようになります。
教え込まなくても、好奇心が勝手に彼らの背中を押していく。 板倉聖宣さんが提唱された「楽しい授業」の凄さは、この自発的な熱量にあるのだと痛感しました。
3. 学びは「選別」ではなく「エンパワメント」
後日、別の用事で学校を訪れたとき、子供たちがニコニコと駆け寄ってきてくれました。

あ!顕微鏡の先生だ!また来てね!
学びの本質は、これで十分だと思うのです。 「正しい知識を効率よく詰め込む」ことよりも、まずは世界を「おもしろい!」と驚ける安心感を届けること。
序列や評価で子供を測る前に、この「原体験」をすべての子に届けたい。 先生たちが子供と一緒に驚く「余白」を持てる環境を作ること。それが教育委員としての私の大きな使命だと、改めて強く思いました。
まとめ:学びは、もっと「自由」でいい
「これを知らなきゃいけない」「あの子に追いつかなきゃいけない」 私たちは少しだけ、学びを難しく、重く捉えすぎているのかもしれません。
でも、顕微鏡を覗いた子供たちの瞳に映っていたのは、点数でも評価でもなく、ただ純粋な「世界の面白さ」でした。
先生がすべてを教えなくていい。 親が完璧なガイドにならなくていい。
「これ、不思議だね」「どうしてだろうね」と隣で一緒に面白がる。 その「余白」があるだけで、学びは義務から、一生続く「遊び」に変わります。
学びって、本当はこんなにもシンプルで、いいものなんですよね。
